万作を観る会
一昨日、国立能楽堂に行ってきました。いいお天気なので着物で。先週の歌舞伎座では襟がク゛ス゛ク゛ス゛になってしまったので、気をつけて着る。今度は、おうちまで無事でした。
万作師の「釣狐」。準備万端(前の日早く寝る、開演までゆっくりして寄り道しない)で向う。袴狂言で「釣狐」前という、本来とは異なる上演方法。あっというまの1時間でした。
こんなに集中して舞台をみつめたのは久しぶり。心にしみました。もう、しばらく舞台をみなくていいと思うほど満足した。
あれもこれもと沢山みたくてついよくばって切符を取ってしまうが、結果散漫になってしまうという事実も否めない。一つを大事にみる。よく反芻し楽しむ。そうして深く記憶に残していくことも贅沢なものであるとしみじみと思った。
シテは百歳に余る老狐。仲間の狐を釣られ絶滅の危機となる。猟師の叔父である白蔵主に化け、これ以上仲間が狩られてしまうことのないよう説得に向う。
鼓の響く音がして、急に狐が現れる。 決意しながら橋がかりを進む狐。 気配が人でなく、 けもののそれであることに大いに驚く。 微妙に床についていない杖の位置や、その杖を握るのでなく持つところにも人間でないものを感じた。 「ものも案内も」と猟師の家を訪ねる狐。猟師が現れ「えい、白蔵主」と答える。 ”えい” という返事に胆を冷やす狐。 ”白蔵主” と続く言葉に我が身を左右と見下ろし確認し安堵する様に鳥肌がたった。一つ一つのやりとりに無駄がなく、意味がある。 相手の言葉に震える様や、説いて聞かしていくうちに興に乗る様子、餌のにおいに野生みが抑えられなく様、一つ一つの動きが素晴らしい。 写実的であるが、生々しくない。至芸というもの、本物というものは、こういうのものだというのをしっかりと味わった。びっくりした。
人化け 人前にでようとする狐。その緊張感。百歳に余る老狐であっても、老狐だからこそ、人というものは残虐な敵なのだ。その想いは、一挙手一投足からどんどん伝わってくる。じっと立つ姿の時が、何よりも訴えてきた。 面をつけていないとか、装束をつけていないとか、そういう違いを全く感じない。すごい狐であった。
狐を受けて立つ猟師。 萬斎師の演じる猟師は、人間らしさが引きたった。このお二人の組み合わせだからこそ発する関係・かけひきに引きこ込まれた。 叔父の話を聞き、もう殺生は止めましょうと同意する。罠まで捨てろと息巻く叔父に これみよがしに ほらと罠を差し出す様子の あの人間くさいこと。 いつの間にか狐側に立って観ていたようだ。
罠を捨てさせる際に、狐は餌の匂いを嗅ぐ。 安堵し帰る道すがら、捨てられた罠をみて葛藤する。老狐であれ獣。罠を目の前に、どうしても立ち去ることができない。鳴き声をあげ、人に化けたこの身を元の姿に改めてこようと 一度この場を立ち去る。その野生は、どうしてこんなにも美しいのであろう。
万作師の狐をみることができて、よかった。萬斎師の狐、深田師の狐を観、その味わいを少しは理解できるようになった今、万作師の狐をみることができて、とれも幸せであった。
連吟 「鳴子」
素囃子 「安宅」瀧流
袴狂言 「釣狐」前
狂言 「止動方角」
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