「カラヴァッジョ/天才画家の光と影」
覚書
カラヴァッジョの映画をみてきました。ものすごかった。
現代人なんて、ひよっこである。
そして、あのような情熱を持つことができる時代でないと、神の絵なんてかけないと思った。
「絵画=宗教的意味あいの、誰がみても何を どの場面を表したかわかるもの」 ( または、「絵画=王室・貴族の肖像画」) という時代。 絵画を書くときに、神を書くことはあたりまえとか、そういう理屈じゃない。 スイッチをひねれば電気がついて、夏はクーラーで冷えるほど涼しい。そういう、軟弱な快適さの中で生活していることで失った感覚だ。惜しいことに。風を感じ、光を感じ、ひれ伏す位思う高貴な人がいて、恐ろしいほど貧しい。五感を研ぎ澄まさなければ、生死にかかわるような暮らし。そんな暮らしにあっとうされた。 そして、剣を持ち本気で決闘したり、ギロチン刑(民衆の面前で斧で首を斬りおとす)がある時代のものすごさにぐったりした。ひ弱なことをいうようですが、現代人でよかった。
この時代には、カラヴァッジョには、神を崇拝する心がある。 心さえあれば、描けるものでないことは百も承知。 だが、現代のように作品に意味をもたせるなんてことをみじんも思わぬ その時代がよく出ていて圧倒された。
あんなにも粗野で、乱暴で、ワインはピッチャーに直接口をつけこぼしながら飲む男が、光が手に触れるような作品を描きだす。あんな棒のような筆が、あんなに繊細な感じをだすなんて。
同業者の天才へのやっかみが面白い。モーツアルトに対するサルエリのような。今までコツコツと自分が築きあげたものが、パっと現れた若者(しかも天才)によって 存在が薄くなってしまうことの恐れ。そして、確かにその才能がわかってしまうあきらめきれない怒り。おそれ。そういうものに心が曲がって、立場を利用した悪意のある行為をしてしまう気持ちがわかる。
「モデルがいないと絵が書けないとは、なんとおそまつな」と誹謗する画家仲間。しかも、娼婦をモデルに聖母を描き批難される。 彼にとって それは あこがれの女性 そのうつくしさを描くためだけのこと。みているこちらも、そこに何が問題であるのだ。とカラヴァッジョの友のような(しかも騎士)気持ちになる。強引に女性を選び、モデルにする。決闘だ、テニスで!といったときには??となった。ラケットなんかつかわず、あらっぽくテニスをしていたシーンも、ものすごく本気でした。
カラヴァッジョが38歳で倒れるまでの波乱の生涯を描く映画。 38歳までよく生きてた気すらする。もう何度もダメだと思った(冒頭から)。濃厚で、気が休まる隙のない映画。 どんな解説書を読むよりも、すごさを感じる映画である。
東京都美術館での「ボルゲーゼ美術館展」で何をみるこができるのであろうか。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント