少年よ大志をいだけⅧ
覚書
今月はじめごろ、西洋美術史 勉強会開催され ホクホクと参加。 緊張しなくなってきた。すごいぞ、自分。
すっかり定例となった 講義前の聴講側生徒による発表。 紅型についての卒論。面白い。そして、そのテーマとの運命も面白かった。 毎回思うが、ここに参加している人はいろいろと魅力的である。
その後、いつもどおり先生による講義。「絵画と写真」
「死と生」というテーマのときに、キリスト教以前と以後との違いに驚いた。BC、ADって分けるはずだと関心しきり。 今回は、写真というものが登場することによって、絵画におこった革命的なことについて学ぶ。こんなに違うとは。また驚く。
絵画というものは、宗教的な教えを表すものであった。そして王室などの肖像を描くという意味をもっていた。そこへ、写真が登場。 画期的に機械ではあるが、王室でないと持てないというほど高価なものではない。才能をもった人でなくとも、機械を操作することにより姿を写し取ることが可能となった。肖像画家たちのとまどいなんて、考えたことがなかった。 宗教画には、約束事が沢山あり、当時の人々は常識としてしっていた。 そういう約束事をうちやぶり、絵をかく意味を模索しはじめたころの作品としると、マネも、モネも、スーラも、ゴッホも、ますます面白くなる。絵画とは、筆の跡を 完璧なまでに残さないものという常識をうちやぶった筆づかいだったのか。 知るということは、実におもしろいことだ。 カラバッジョの映画で、宗教画のあの時代を少し感じたような気もする。 一度みたことのある作品を、もう一回みたい。ワクワクする。
そして、自分の大きな壁である 人に伝えることについても、少しのりこえたい。 自分の中で、消化できていないからなのだろうな。さらっと紹介する。これが夢。
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