『ふたつめの月』『賢者はベンチで思索する』
近藤史恵の『ふたつめの月』(文春文庫)を読む。 前編の『賢者はベンチで思索する』(文春文庫)も読み返した。
契約社員から正社員になったと思ったとたん、解顧をいいわたされた久里子が主人公。 重くるしい。親とか人の気持ちがみえて、自分がますますズブズブ沈んでいく。 『賢者は~』のように、主人公 久里子は、どうにもぬけられない 泥の中にいるような状況からはじまる。 ここでも前作同様に、老紳士に相談することにより、心がほどけていく。夢のような、ミラクルな解決方法ではないけれど、苦しんでもがいた人だけが得られるゴールなのだなとしみじみした。 白か黒かなんて決められないのだな、人生は。
こけてしまったら、それはそれでいい。起きて、ふて腐れて、泣いて、もう歩かないとか 私だけなんでと 存分にめそめそすればいい。 沢山考えて また歩けばいい。 頑張りは無駄にならない。 べそべそしている期間も必要なのだなと思った。
ちょこっとした幸せとか、ちょこっとした腹立ちとかの繰り返しの日々。 今、自分の持っているものに気がつけば、案外いいなと思えるし、感謝もできる。 くじけたからこそ、知る優しい気持ちってものは、絶対にある。
持っていることに慣れてしまい、無くしてみてはじめて気が付くものについて考えた。 今 ちょっと、人の文句に辟易としているので。 不満はあっても、それでも まだ充分に恵まれているのに。 その中でも こういう状況はありがたいなと、少しは思えないのだろうか。 それでは 文句しかでないのだよ 。もったいない。 というか、文句にくたびれた。 文句は、周りをくたびれさせるのだ。 そして、それは ちょっとのはずみで 自分もやってしまうなと思った 。大いにありえる。つるかめつるかめ。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント