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2010年7月30日 (金)

七月大歌舞伎 夜の部

先週末、母と演舞場へ。7月歌舞伎夜の部を見に行ってきました。面白かった!
まずは、團さまの暫から。 あれっ。全体的に まったりしてました。危機感のないまま、しばらく~という声がかかる感じ。 でも、この團さまの鎌倉権五郎の出のところは、よかった。花道でのやりとりも、さすが團十郎!でした。 
次に、傾城反魂香。吉右衛門さんの又平に、芝雀さんの おとく。どもりなばっかりにという切なさ、やるせなさがよかった。いい夫婦でした。 「かか、ぬけた」も、じーんとしてよかった。 厳しい態度で臨む土佐将監の歌六さんもいい。陰ながら支える吉之丞さんもすてき。 熱がこもった、いい舞台でした。
最後に、馬盗人。三津五郎さんと馬が舞台をさらっていきました。楽しい。劇場中が楽しい雰囲気になりました。 馬盗人 三津五郎さんの のどかな ならずものぶりがいい。 その仲間に、巳之助くん。 必死にがんばってました。常に150%っで突っ走っているところが愛らしい。 鳴り物さんたちも、いろいろな楽器を用意していて、舞台の端から端までみどころ満載。 そして、とびっきり盛り上げてくれたのが、お馬さん。 芸達者! みんなの人気をさらっていました。花道で見得をきり、堂々とひきあげていきました。すばらしい。三津五郎さんとこのお弟子さんだろうなぁ。 勝手に大和さん・八大さんコンビであろうと決めつけ、さらに応援しました。愛らしかったなぁ。

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2010年7月29日 (木)

七月大歌舞伎 昼の部

先週末、演舞場へ7月大歌舞伎を見に行ってきました。やっぱり、大歌舞伎はいいなぁ。
まずは「名月八幡祭」。深川芸者、美代吉に福助さん。いい旦那(歌六さん)がついているのに、遊び人 三次(歌昇さん)に貢ぐ。歌昇さんは、おねだり上手でした。怒ったり甘えたりして、思うまま貢がせる。やるなぁ!歌昇さんたらっと、現実と区別がつかなくなる。とうとう、借金に首が回らなくなり、祭仕度の百両が出来ない。深川芸者が祭りに出ないわけにいかないと、さすが福助のいきづまる。そこへ、越後の純朴な商人 縮屋新助(三津五郎さん)が登場。しかも、福助さんに首ったけ。この家に住まわせてくれるなら、百両用意すると決心してしまう。田舎ものがバカなことを言ってと、本気にせず承諾してしまうる芸者 福助。決死の覚悟で出て行く三津五郎さん。あああ。 結局、懐の深い旦那 歌六さんが百両用立ててくれることに。また歌昇さんといちゃいちゃしている所に、全財産売り払って百両こしらえた田舎者 三津五郎さんが帰ってくる。あああ。もう用立てできたと、悪気もなく あしらう福助。 もう、劇場中が三津五郎さんを応援よ!あんなアマ、やっつけちまえ!(失礼) 結局、刃傷沙汰に。刺しちゃいました、三津五郎さん。それでいいよとおもちゃった。 みんな、三津五郎さんの味方よって感じでした。少なくとも わたしは。  時代劇のように仕立てても(近代的な視点で書き換えた新歌舞伎らしい)、やっぱりちゃんと歌舞伎になるのがいいなぁ。
次に、富十郎さんの「文屋」。うなづいてみせるとか、小さな動作が 富十郎さんがすると、なんかいい。いい間だなぁ。
最後に、金閣寺。團十郎さんの松永大膳の拵えは、大きかった。暑いだろうなぁ。客席も大変暑かった。雪姫に福助さん。夫、狩野之介直信に芝翫さん。年齢差とかこだわらない。 「細かいことは関係ないの」という超越した感じがいいのだよ、歌舞伎は。 歌舞伎の演目としてより、なんか歌舞伎っていいなぁなんて思いながらみました。そんなに、久しぶりの歌舞伎観劇でもないのに。

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2010年7月28日 (水)

ザ キャラクター

東京芸術劇場へ。NODA MAPの「ザ キャラクター」をみてきた。1週間程経ちましたが、まだ色々考える。
この作品のテーマになっているものに関して、あえて具体的には 何も語らない。 パンフレットにも明記しない。 あの事件。
我々は、あの恐ろしい事件に打ちのめされた。あんな、愚かなもののために なぜ犠牲がでなくてはならないのかと憤った。同時に、自分に降りかからないとは言えない恐ろしさがあった。あの事件。
それから月日が流れた。今でもあの事件の後遺症は大きく、先日も自ら命を断つ人が出てしまったという記事を読み 衝撃の大きさについて、また考えた。いつまでもねちっこくひっついて離れない、あの事件。
今の高校生が生まれたころの事件だそうです。あの事件をリアルタイムに知らない人がそんなに沢山いるのかと驚愕した。
あの怖さを、ニュースで知っている私には、みながら怖くて仕方なかった。この先に待ち受けている逃れられないものに向って進んでいく様が、締め付けられるように怖かった。心を病むほどでなくても、何か心に隙間があるときに、すーっと入ってきてしまいそうな、バカげた集団の力。それを人ごとでなく感じた。 どこか変だとはおもいながらも、現実に押しつぶされそうになっている人には、もうこの流れに乗っちゃった方が楽だと感じてしまう 集団のもつ妙な力。 その集団から、我が子を引き戻そうとする母。 何の言葉も、自身の頭に 心に響かなくなってしまった信者。 まぬけそのものの言動なのに、変に惹きつける家元の説得力。それを支える幹部の、共犯者の重石に動けなくなっている様。意識の底に変だと思いながらも、もう信じる方が楽だからと、前をみない怖さ。すごい。
しっかりした話。目をそむけてはいけない話。それを、芸の力のある人たちですすめていくと、こんなにも力を持つのか。久々に、すごいものを観た。
家元には古田新太ちん。いつもより、動きをひかえて、うさんくさく、残酷で、でも人をひっぱる何かがありそうなヤツだった。バカみたいなのに、怖い。指をさされたら腰をぬかしそうなイヤな迫力。なのに、うっかり笑っちゃう間。 妻は、野田。余裕のある夫婦の、その余裕がまた迫力。2人が黙ってみてると、試されているような気になる。
その教団は、元は橋爪さんの経営する町の小さな書道教室からはじまる。そこの大家(おおや)だったのに、気がつくと大家(たいか)にさせられていた。なぜ、こんなことにと言っているうちに、がんじがらめになっていく。人を先導しつつ、現実におびえる、微妙な表し方が、とてつもなくうまい。 話の終わりごろ、とてもとても小さな声で ささやくように言う その言葉には、人を集中させる力があった。参った。うまい人の芝居はいい。
藤井隆の、目がすごかった。何もいわない時のあきらめとも怒りとも違う、すごい目。卑怯さとか凄味とかそういうものがすごかった。チョウソンハさんって人のテンションも見事。人を威圧しないのに、集中して高いテンションでいるって、すごい。人じゃないみたい。
宮沢りえちゃんは、大きな悲しみを背負わされても、絶対にあきらめず、その波ののまれてしまうことになっても、命がつきても小さな暖かい希望の光になるという、そういう切なさがよく似合う。背負わされるだけの人だった。華奢だけど、大きい人間。
銀粉蝶さんは、我が子を探すオバちゃん。地に足がついていた。うまい人って無駄がなくて、ストレートに心にはいってくる。うまい人の芝居っていい。
あの事件を、町の小さな書道教室の話にする。文字の持つ力を操り、大切なものを巻き上げる。財を 人としての心を。 家元の思いつきのような一言から、ギリシア神話の世界にスイッチする。ギリシャ神話をいかし、文字の力をいかし、やつらの集団は、あのおぞましい事件に進む。 もう起こってしまった、あの日に。 それをみるとこは、怖いことであるが、観るのをやめたいものでもなかった。幼稚さの残酷性が恐ろしかった。 野田演劇の訴えようとしているものを、真剣にみてきた。いろいろ考えた。人が、いろいろ考えるための芝居なのだと思う。

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2010年7月27日 (火)

能の雅(エレガンス) 狂言の妙(エスプリ)

Photo 先週、サントリー美術館にいってきました。 開場25周年記念 国立能楽堂コレクション展「能の雅(エレガンス) 狂言の妙(エスプリ)」をみてきました。
面に、どういう演目でどういうものを演じるときに使用するかコンパクトにまとめた解説がついており、うまい展示だなと思う。能の装束の刺繍のすごさは、アピールされているのに、狂言の肩衣の粋な感じが、今ひとつアピール不足。もっと狂言を贔屓した展示を!と勝手に思う。
能舞台を模した空間を作り、翁・三番叟の装束と扇・鈴などを展示したり、凝っていました。 道成寺の鐘も展示。願わくば、中をみてみたかった。会期終了近くにいきました。図録は完売とのこと。
「幽玄という言葉で表現される能の雅な美と、その対極に位置する狂言のエスプリに富んだ魅力に迫ります。」と書かれていましたが、対極さは感じませんでした。 全体的に、上品な感じ。 宣伝しすぎないのもいい。入場者 何万人突破とか そういうギラギラしたものがなく、ひっそりとそこにある しっかりした感じがよかった。

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2010年7月23日 (金)

古屋誠一 メモワール

先週の金曜日、東京都写真美術館へ、「古屋誠一 メモワール~愛の復讐、共に離れて…」をみにいってきました。父が観にいって、涙が出るほどジーンとしたいうので 終わる直前にあわてて向かう。
なんの情報もなくみると、主題がわからないかもしれない。作品展示内に、そう親切な注釈もない。朝日新聞に紹介された記事を読んでいたので、おぼろげながら概要をつかんでみる。写真家 古屋誠一の妻クリスティーネを撮影した写真集『Mémoires(メモワール)』。一番最初の展示は、遺影と戒名の並ぶもの。そのあと、いろいろな表情のクリスティーネの姿を移した作品が並ぶ。これは、1985 年に東ベルリンで自ら命を絶った妻クリスティーネを撮影した写真なのである。年代が並んでいるわけでもない、そのバラバラな表情の彼女と、息子である功名くんの写真は、そのバラバラさがなんだか心にひっかる。
これまでの写真展の図録を掲載したコーナーをみて、それらの写真は 彼女がこの世にいたときは、撮影することまでであった事を知る。彼女の死後、何年も経って、古屋は彼女の写真を現像し、日記を日本語訳してもらうことにする。 2人には、よく言い争いをした時期があった。そして、喧嘩した後に1本近くフィルムをつかって妻の姿をカメラにおさめることがよくあったとある。口をアヒルのようにとがらし、それを誇張するように手で唇をひっぱるリスティーネの写真は、喧嘩のあとに撮られたものだと知る。どういう感覚なのであろう。 そういう知識を得て、もう一度作品をながめてみると、一緒にくらしている家族の近さと遠さを感じる。
2010年1月インタビューよりという古屋の思いが書かれていた。「写真とは心の奥深くに籠る“どうしようもない何か”と向き合い、さらにそれを表現の場へと引き上げることを可能にしてくれる素晴らしいメディアである」
配偶者の死というテーマ。その上、自分で死を選んだ配偶者。その気持ちを知りたいということと、探りたくないということと、目をそむけていては決して知り得なかったこととか、いろいろなことを考える。写真はあどけなかったり、静かすぎるまなざしだったり。生きているっていろんな種類の感情がうずまく。落ち込んだ日々でも、ちょっとほほ笑むこともあるし、浮かれているときにふとひどく冷めてしまうこともある。 写真家のとる表情は、かつそれが配偶者である人のとる表情は、すごかった。「愛の復讐、共に離れて…」というタイトルにもうなる。

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侍と私

先週の金曜日、東京都写真美術館へ、「侍と私~ポートレイトが語る初期写真」をみにいってきました。
世の中に、写真が登場し、肖像画から肖像写真へと変貌する。それにより一部の特権階級のみのものが民主化された。油彩画による肖像を含めた展示は、わりと面白かった。明治天皇ご夫妻、きえてしまいそうなうっすらとした画像の徳川家康公、島津斉彬に、岩崎久弥(弥太郎の長男)、西郷隆盛の弟となかなか興味深かった。
写真家としては、上野彦馬に注目。三谷作品の彦馬がゆくの人?劇中の神田彦馬は、実在の写真家・上野彦馬をモデルにした作品でした。あの物語のような時代かと思いながらみるのは、なかなか楽しい。写真家として名を残した、上野彦馬、小島柳蛙、下岡蓮杖、内田九一、鹿島清兵衛らの作品と、同時代のお手本となった西欧のものを展示。
展示の最後の方に、鹿島清兵衛『九代目市川団十郎』というのがありました。暫の拵えをした本物の團十郎(九代目)。顔が長くて、隈がきまってました。形のいいこと。後年(1895年頃)のプリントということで、状態もよかったです。おお!といって食い入るようにみてきました。

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2010年7月22日 (木)

早朝蓮観会

Photoしずかな3連休でありました。毎週土曜日に通っているプールの予定しかない3日間。心静かに暮らす。 家のあちこちの隙間に、こっそり隠しておいた文庫本をひっぱりだし、文庫本 本箱内の並べかえをする。 おお 同じ本がなぜ2冊あるの? と自分で驚いたり。 作家ごとに並べ、自分の中の雰囲気毎に棚に並べたりするのは 結構楽しかった。読み返し したい本が、たんまり。しばらく楽しめそうで、ほんのりワクワクする。 足元におきっぱなしの紙媒体も少々処分した。
連休の中日の朝、三渓園にいってきました。早朝蓮観会がお目当て。7月10日から月末までの土日祝は、特別に6時から開園。 早朝6時30分についたのに、すでに結構な人出。びっくり。 まずは、睡蓮の池。モネが書くように池にびっしりと睡蓮。そして姿はみえないけれどウシガエルが低音でないてました。 そして、蓮の池へ。周りを人が取り囲んで大人気。三脚をたてたカメラマンが沢山。怖いくらい真剣に撮影するその姿に、まぁまぁ と言いたくなる(怒られそう)。 蓮の花が開くときに「ポンっ」というらしい。子供のころからそう思っていました。それが聞きたいなぁと思い、早朝に家族全員で出かけたのですが、池のほとりに立てられた看板によると、蓮はゆっくりと開花するのでポンという音は聞こえませんと書かれていました。 花が開くのをみるには、6時30分でも遅いようです。早朝から暑いなぁ、夏だなぁと思う。
広い三渓園。木影をあるくと涼しい。100年たっても、うーむ 綺麗だ と思うことのできる建造物はいいなぁ。お金もちの正しいお金の使い方。保持するには、費用もかかるのでしょうが、こういう立派なもののために私財は使うべきです。えらいぞ原三渓。
帰りに本牧のパン屋さんで焼きたてパンをあれこれ購入。おいしかった。 お休みの日で、予定がなくって、おいしいパン(しかも焼きたて!)のある朝食って素晴らしい。

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2010年7月16日 (金)

歌舞伎鑑賞教室 歌舞伎のみかた&身替座禅&歌舞伎のみかた

7月の初歌舞伎は、国立劇場へ。先日、7月歌舞伎鑑賞教室「歌舞伎のみかた・身替座禅」を観てきました。
解説 歌舞伎のみかたは、壱太郎くんと、隼人くん担当。 以前のインタビュー記事で、同世代の歌舞伎役者もいるということを知っていただきたいので、通常は袴姿で解説するのだけど、私服で登場しようと相談して、きれい目カジュアルの服を買いにいきました というのを読んだので、そこにひかれていってきました。 私の観にいった日は、1階・2階は高校生でぎっしり。そこへ、「踊る大捜査線」風に登場。風っていうか、そのまま登場(いいの?)。 意表を突く登場に まずびっくり。 かなりカジュアルにでてきたのに、そのノリに頼らず 丁寧でまじめ。丁寧にくだけている様が、たまらなくかわいらしかった。お固い小芝居っぷりがいいの。お行儀よくて。
壱太郎くんは、さすが翫雀さんのお子さんだけあって、優しくて紳士で、ちゃんとしていました。 しっかりリード。 きっと石田純一のようなダンディーな人になることでしょう。 そして、隼人くんは何を応えても、少々固すぎ。一本調子ぎみで 逆に大物感がありました。女子高生たちがキャーキャーいってました。休憩時間には、ヤバイ、かっこいいーと大騒ぎ。 僕は19歳(壱太郎くん)、僕は16歳(隼人くん)というと、客席ますます大騒ぎ。 面白かった。 きまりきったやりとりを、無理に自然にやろうとしているところが、すごくいい。 お行儀のよさって現れるものですね。 
本公演の『身替座禅』は、コミカルですし、わかりやすいし、みんなしっかり楽しんでいたよう。侍女千枝・小枝役で舞台に、2人が登場するので、真剣にみているようでした。お父様の錦之助さんが右京を演じたのも、さらによいのでは。 彦三郎さんの山の神は なかなか強面さんでした。 太郎冠者の亀三郎さんは かっちりうまい。 短めで、鑑賞教室にはぴったりの内容でした。
身替座禅あと、再び歌舞伎のみかた。珍しいパターン。 今度は袴姿で登場。 舞踏 棒しばりのの一部まで披露してくれる その大サービスぶりに、たっぷり楽しませていただきました。 これで1500円!ありがとう、壱太郎くんと、隼人くん。 (と錦之助さん と彦三郎さん と亀三郎さん。)

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2010年7月15日 (木)

ファウストの悲劇

シアターコクーンに、「ファウスト」の悲劇を観にいった。「主役;野村萬斎」なので、はりきって初日に。歌舞伎会で取った席は2列目。なんだか派出な芝居でした。
客席へ。になんと幕は、定式幕???幕の前にせりあがってきた男はなぜかちょんまげ姿。その上、口上を述べる。黒子に扮した役者が、定式幕をあけると、舞台には鏡が。要所要所にながれる音楽は、チェンバロみたいなバロック音楽。鏡は照明によって、鏡の後ろの舞台がすけてみえる。 これ、十二夜じゃん。
基本的に、洋装なのだけど、ときどきちょんまげ頭の役者が登場する。後ろは江戸時代のようになっていて、役者がそこで着替えたちしている、 ミスマッチ感を狙ったのだろうが、歌舞伎好きには別に新しくもなく、なんだか落ち着かないだけでした。ニナガワっち、歌舞伎気に入ったんじゃんと、少しシニカルな気持ちでニヤニヤみる。 あと、これは文句じゃないけど、附け打ちや柝の音が にごっていました。本物って、いい音なんだなと思った。(歌舞伎演目中に、音のにごりが気になることはないので。) 芝居中も、歌舞伎色が強く、その違和感が狙いなのだろうけど、あんまり効果は感じなかった。がんばりすぎで、効果が薄まったというか、効果になっていなかった。このアイデア、十二夜じゃん ってつぶやきながらみる。
猛勉強の結果、若くして博学とうたわれたファウスト博士(野村萬斎)。この先 勉学を突き詰めていっても 悪魔学に勝る知識はないのではないかと思いこむ。何でも知りえることができ、人を動かすことができるのであれば、もう魂などいらないと言う。知識をもとめるがあまり人の心などいらないと思う。またキリスト教の教えにしばられ、安泰を求める心もある。その揺れ動きが、わかりやすく、格好をつけまくっていて楽しかった。楽しそうな姿をみるのも、楽しい。暗く苦悩するだけが見せ方ではない。
そこへ現れる悪魔 メフィストフェレスは勝村政信。ファウスト博士の呪文に呼び出されて出てくるさまのバタバタさが、秀逸。みごとなバタバタ。計算しつくしたバタバタ。 人の魂を得るためなら、髪をふりみだして何でもするというコミカルさと、魂引き渡しの期限がせまってきたときの冷静さへの切り替えがうまかった。冷ややかで。あんなにまでしてでも手にいれたい人の魂。それを手にれたらどうなるのであろう。その先を明かさず、恐ろしさを感じさせる手腕があった。
騎士役に長塚圭史。ちょっとしかでないのに、必死で動き回る騎士よりぐっと面白かった。ずるいほど。英国留学から戻ってきていたのですね。留学の結果がわかる暇のないほど短い出番でしたが、一味ちがう。白井晃といい演出家というか座長は、一味違う。
地位のある人に絶賛され、光栄に存じますといいながら自慢に思う心と、自分できめた魂を受け渡す期限の迫ることへの恐怖が、ものすごくわかりやすかった。悪い意味でなく。わかりやすくてよかった。 悪魔がビュンビュンフライングして、火花(花火)が景気よくあがり、派手な舞台でした。難しいことをかんがえないで、派手さを楽しめる舞台でした。苦悩はわかりやすく、見た目が華やか。飽きることなく楽しめるかも。深さを求めるばかりが舞台でないし。勝村さんと萬斎師の、華やかさとパワフルさで楽しみました

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2010年7月14日 (水)

コクーン歌舞伎 佐倉義民傳

もう、先月のことになっていました。 コクーン歌舞伎 第十一弾 佐倉義民傳をみてきました。ふぅーんコクーン歌舞伎ね。一応みておきたいなぁ。くらいの感じでのこのこ観にいき、ドーーーンと衝撃を受けました。
歌舞伎座でも、「佐倉義民伝」をみました。幸四郎さんでみたなあと思うのだけど、案の定泣かされたなぁという記憶しかなかった。2008年12月14日(討ち入りの日)に観にいっていました。(そして、昼夜観劇していました。)昼の部、梅玉さんの「高時」・三津五郎さんの「京鹿子娘道成寺」と幸四郎さんの「佐倉義民伝」だったようです。うっかり泣いていた様子です。段四郎さんが「だんなしゃま、だんなしゃま~」っていうのにもぐっときていたみたいです。
今回は、コクーンで歌舞伎をやるってことの意義と意味がよーくわかった。ラップをとりいれた歌舞伎。ラップの新しさがすんなりなじんでいた。こういう歌舞伎もあると思った。ラップで伝える言葉は、義太夫で語られるよりも、しみてくる事もあった。「走れ、宗吾、走れ。」という言葉が、芝居を震わせていた。普段は芯になる役者が魅せ、周りはじっと動かない。そこに歌舞伎の美学があり、そこが好きなところだ。これは、周りが宗吾を(勘三郎を)震わせ、芝居を震わせ、その上で宗吾に魅せられた。土まみれの農民の心がよかった。全体的に、全員でつくっている舞台感があり、それが集団の心理のうごく様をあらわしていたように思う。もう我慢ならぬから、この命がなくなってもお上に言わなきゃならないことがあると立ち上がるさまや、先導者(橋之助演じるにせものの由井正雪)を得、いいなりになって動いてしまう農民のさまが、この時代感を出していたと感じた。そこへ、とことん正義の人、下総佐倉の木内宗五郎が奔走する。命を捨てないよう諭し、どうにか道を探そうとする。決してあきらめず、決してまがらない。ウソみたいにまっすぐである。このまっすぐさは、勘三郎だからこそだせたものかもしれない。
両極的にいるのが、扇雀演じる世間知らずの殿様である。勝手にあつくなり、側近に導かれ その想いを あっさり放棄する。しかも、そこには筋が取ってすらいるように。この対比がわかりやすく、より宗吾に思い入れできるよう展開する。
一番圧倒されたのは、処刑シーンである。すべてをかけて殿に想いを訴える。一度は、熱く受け入れられる。喜びいさんで帰る途中、変心した殿の命により、追われる身となる宗吾。 最後に残されたたったひとつの道、自ら将軍へ訴えかける決死の「直訴」という道を選ぶ。それでも、末路はきまっていた。捕えられ、あろうことか妻だけでなく幼い子供まで一緒に処刑されることになる。
親子の別れで、さんざん観客をなかせた息子。 長男は、処刑される前にも けなげにも 弟・妹を案じ怖くならないよう先に殺させる。いざ自分の番となる。そうなっても泣き叫ばず、前をむいて南無阿弥陀仏と唱える。そんなけなげな息子に、父 宗吾が、念仏なんか唱えるんじゃない。と叫ぶ。成仏なんかするなと叫ぶ。 ここに、言葉もでないほど驚いた。 やっと恨むのかと思えば、怨念になってでも、この苦境にたった農民を救い、佐倉の地を守るのだと叫ぶ。このときになっても、農民をうらまず守ろうとしているのである。  農民が救われるのを見届けてからでないと成仏するなと叫ぶ。もう、ここで降参である。 本気というのは、これである。邪魔されても、ねたまれても、何がおこっても、少しも揺るがない。この本気さに参った。 あなたための思ってなんて、ウソくさいものではない。すごい。そして、勘三郎さんは、たてまえとか、そういうものに邪魔されない本気さを持っている人だと思う。 宗吾と勘三郎の、この本気さに圧倒された。
舞台に四角い箱を置き、その中に土をうぃれる。芝居は、その土をいかして進められる。土の中ではいつくばったり、苗を植えたり、刈り入れしたり。土はあたたかく土は冷たい。どろまみれになって展開する世界感がぴったりで、しっくりきた。串田和美演出の歌舞伎という意味が、ちゃんとあった。
魂にどーんとくるコクーン歌舞伎でした。
あまりにも、ドーンときたせいか、最後のところはなくてもいいと思った。処刑の時になっても「念仏なんか唱えるんじゃない」と叫ぶ。「成仏なんかするな」と叫ぶ。佐倉の農民たちが救われるまでは、怨念になってでもこの地にとどまれと血をはくように叫ぶ。 もう、この先はいらないと思った。まとめて欲しくもなかった。私は そう思った。

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2010年7月13日 (火)

印象派とエコール・ド・パリ

先週末、父と横浜美術館で、「ポーラ美術館コレクション展 印象派とエコール・ド・パリ」展をみてきました。 昨今、印象派と銘打った展覧会が多いことですなあ。
モネ、ルノワール、セザンヌ、スーラ、モディリアーニ、ピサロ、シャガール、レオナール・フジタ(藤田嗣治)、セザンヌ、ルドン、ピカソと、こちらも有名どころばかり。国立新美術館でみたものと時代は同じくしているのに、ずいぶん印象が異なる。柔らかい色あいのものが多い。箱根仙石原 ポーラ美術館の収集する趣味がはっきりでていて、そこは面白かったが、ポワンとしていた。少女趣味っぽいのか。ピカソの「青の時代」の『海辺の母子像』まで、少し違ったような印象をうけた。不思議。
シャイム・スーティンの『青い服を着た子供の肖像』という作品が気に入った。
こういうものは、比べるものではないけれど、あまりのも国立新美術館のオルセーのポスト印象派展が、強烈でしたので、なんだかポワンとして薄味に感じてしまった。

その後、横浜美術館コレクション展(愛称:ヨココレ)も鑑賞。メレット・オッペンハイムの『栗鼠(りす)』があり、うれしかった。毎回展示されているわけではないので。 たる型の黄色のガラスの横に、ふさふさの毛がある作品。確かにリスのよう。これだけ。それど、すごい。  解説書を紐解くと、「冷えたビールを飲むときの口元の感触や喉ごしと、毛皮の手触りや肌触りを同時に思い出させようとする装置。既知の品物を組み合わせて変容させることで、見る人の触覚をも刺激し、官能の記憶を呼び覚ます。シュルレアリスムのオブジェならではのメカニズムである。食器を使うことで口腔という粘膜の感覚を引き入れた。オッペンハイムの独創性を感じる作品。」とありました。そうなのか。そうだったのか。そこまでわからなくても、なんだか気になる一品。
そして、好きなものがもうひとつ。大島康幸の『FAKE FUR』シリーズ。トラとヒョウがありました。こちらは入口横に展示されているため、入場料を払わずとも鑑賞可能。楠を着色して作成されたトラやヒョウの皮。ダランとかけられた木でできた毛皮ってとこが何だかとても好き。うちに欲しい。こんな大きなものどうするとか、そういう常識にとらわれず、これ欲しいと思う一品(二品)。
写真のコーナーには、カルティエ=ブレッソンの撮るボナールやマチスの写真がありました。カルティエ=ブレッソンの作品としてでなく、あーこういう人だったのかという目で鑑賞。自画像のように 自分なりの味付けがされていない本人像をみることができるのは、貴重でした。

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2010年7月12日 (月)

「オルセー美術館展2010−ポスト印象派」

先週、国立新美術館へ「オルセー美術館展2010−ポスト印象派」をみにいってきました。
鳴り物入りのこの展覧会。すごいです。ロンドンでいえば、コートールド美術館みたいにすごい。一日じゃみきれないほどの分量はないけれど、全ての絵が全部有名。有名ならいいってものじゃないけれど、有名になるものには、オーラがある。オーラのある作品ばかりで、気が休まらないほどのすごさ。 ニコラ・サルコジ フランス共和国大統領が、「これらの絵画がまとめてフランスを離れることは2度とない」とのたもうた、空前絶後の世界巡回展。これが大げさでない展覧会です。そして、混雑しています。
セザンヌとか、ゴーギャンとか、あたりまえだけどうまいなぁと、またしみじみと思ってしまった。個性もすごいが、その前にうまい。ポール・セザンヌの『水浴の男たち』は、美しかった。
このオルセー~展をみて、自分がナビ派の絵画も、すごく好きなことがよくわかった。西洋美術館の常設に展示されているドニの作品『雌鶏と少女』が妙に好きだった。そのモーリス・ドニの作品もあり、ナビ派の作品を、派の印象を感じながらみることができたのもとても気に入った。 
「ナビ」はヘブライ語で預言者を意味する。この前衛芸術グループは、象徴主義的な精神土壌に根ざしている。そして、画面の二次元性を強調し、平坦な色面配合による強い装飾的効果が特徴である。つまり、同系色でまとめた平板な色面の組み合わせである。ナビ派のドニ、ボナールやヴュイヤールの作品は、色合いが独特。その淡さは絵本にもありそう。アーツ・アンド・クラフツ運動に端を発する、芸術と生活の融合を目指すデザイン革命がおこり、絵画としてだけでなく室内を装飾するものになっていく過程を感じた。なぜ、ナビ派が好きか聞かれたら、自分はなんて答えると適宜な答えになるのかなどと小難しいことをかんがえたりもした。何か好き。そのなんかって何だろう。
この展覧会は、10章にわかれている。その章立てもうまい。9章のアンリ・ルソーでは、大きな作品が2つだけ。『戦争』と『蛇使いの女』。それで、説明不要の圧倒さがいい。10章のエドゥアール・ヴャイヤールの公園の連作もすばらしかった。5章のゴッホの『星降る夜』の色のすごいこと。この作品の色は、このすごいものだらけの展覧会の中でも特別でした。絵でかいた色ではないような艶がありました。
とにかく、面白かった。知っている絵で、パリでみたことがある絵。それでも本物はすごい。面白かった。

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