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2011年5月10日 (火)

たいこどんどん

GW覚書。
観劇三昧。こんどはシアターコクーンへ。 井上ひさし追悼シリーズ。蜷川幸雄演出の「たいこどんどん」。時は江戸。もうすぐ明治を迎える頃の江戸であるが、そこに住む人々はそんなこと露知らず。江戸の薬種問屋 鰯屋という大店の若旦那のぼんぼんとたいこ持ちの2人組。調子よく世間を渡ってきて、いつまでもそれが続くと思っていたら、ありえないことでその歯車が狂う。どんどん音を立てて転落するも、若旦那とたいこ持ちの関係はかわらない。 よっ若旦那 と盛りたててもらい、転落するもなんとかなる。必ずどうにかなる。 どんなことがおころうとも、2人の関係はかわらない。たいこ持ちに染みついた たいこ持ち魂。こんなことになってまで、こういう状況でも たいこ持ちはたいこ持ち。 どうしてなのか たいこ持ちよ。たいこ持ちの気持ちがわからないと思いつつ、その気持ちについて深く考える。
人は産まれて、やがて死ぬ。そのことは平等。それ以外はちっとも平等でない。お金がある人と ない人。人をつかう人と つかわれる人。富だから幸せ貧しいから不幸せという訳でもない。 上に立つものの器量と、仕えるものの配慮は、またそれぞれの才能である。 それぞれが築きあげた、自分の道に自負がある。 けれども、その立場って何だろう。
理想の形を求めるわけでなない。生きていくための精一杯のやり方を貫くしかない。 太鼓持ちが、最後に言う。 解決にならない言葉。これでいいんです。あっているんです。このままでいいんですっていう太い叫びが心にしみた。
大店の若旦那は橋之助さん。本物!全ての動作がなめらか。調子のよさとか、ピンチに弱かったり、妙に強気だったり。 特に人を使いなれている人の頼み方。 たいこ持ちは古田新太ちん。よっ 若旦那と調子よく持ち上げておいて、腹で他のことを考えているかと思いきや、 たいこ持ちの立場をものすごくわきまえていて、たいこ持ち道を突き進んでいる。微妙なんだか 芯が通っているんだか。 炭鉱の一人芝居は秀逸でした。静かにみているけど、もう息もひそめてみてました。 花魁は鈴木京香ちゃん。どうどうした美人さんでした。
演出の派手さゆえ、少々 盛り上げすぎではと思うところがあった。 どこまでも、どんなときにも、忠実なたいこ持ち。なぜだろうと首をかしげ考えるときにも、工夫をこらしたあれやこれで展開させる。ちょっと散漫になるところがあった。 キャストも 装置も 展開も 豪華な 蜷川手法は面白いのだけれど、展開に気を取られた。歌舞伎をたっぷりとりこみ、またまた鏡を駆使しまくり、長い話を展開よくどんどん進める。  紀伊國屋のような会場でこまつ座がみせる本来の井上ひさしの芝居との違いについても考えた。 魅せるっていうことについて。
_crop_6 あと、さすがの新太ちんも 最初 膨大な台詞にのまれぎみののところがあった。こういうこともあるのだなとちょっと驚く。後半になり、のってきたときの迫力はさすが。たいこどんどんだ。どんどん落ちていく。ひどいことになったと思うと、もっと落ちていく。それでも生きていく。若旦那をよいしょして、鼓舞させて。自分も乗せられて生きていく。物語の迫力に押された。

生きていくということ。そこには自分の流儀がある。 周りに馬鹿にされたとしても、友にくだらないと思われようともね。 自分の大切に思うことを、他人の価値観なんかに譲れない。そういう芯みたいなモノがあるから がんばることができる。負けるもんか。なんだか力強い気持ちになった。

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