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2011年6月28日 (火)

コクーン歌舞伎 盟三五大切

昨日、コクーン歌舞伎第十二弾  盟三五大切を観てきました。去年、衝撃を受けたコクーン歌舞伎。演出の力がやっとわかったと思った。今年もまた、驚かされた。参りました。平場だからお尻も痛い。心身共にぐったりする程、のめり込んでみてきました。
去年のコクーン歌舞伎で衝撃。それは、ラップという手法で語りかけること。主役以外の多くの人がとにかく動き、集団心理を表すこと。それでも歌舞伎の胆があること。であった。
今年は、手法としてはきっちり古典であった。そこに丁寧に丁寧の心情を追う目線が加わる。ここが新しかった。
歌舞伎の様式美を重んじるところは、時に現代人には説明が足りなく 不親切と思える程である。しかし、その為に特有の世界感ができる。そしてそれが歌舞伎の美しさを保っていると、私は思う。  今回はここを壊した。 斬新さという手法でなく、こんなにも丁寧に丁寧に心情を追う。 歌舞伎役者が演じるからこそ、これは演劇ではなく歌舞伎であった。この形式を保つことのできる役者の技量もすごいと思った。
物語の最後、全ての連鎖を背負って 三五が腹を切る。 通常の歌舞伎では、ここで幕となる。
コクーン歌舞伎では、盆が回る。 源五兵衛が、斬殺前の家の裏手に潜んでいる場面になる。 人はよく「あの時、ああしていれば」と後悔するものである。この場は、まさしく 源五兵衛が「あの時、辛抱していれば」という場面のようであった。 自分が手をかけることがなければ、あの者もあの者も みな それぞれのの日常を過ごすことができていたのに。 紗幕の向こうの平凡な世界がまぶしかった。 毎日の事で笑ったり泣いたり怒ったり。無くしてみると「普通」のなんとすばらしいことか。
この芝居では、皆が 源五兵衛のために 必死になっていた。 結果として、源五兵衛のために 源五兵衛をだまし、源五兵衛を絶望させ、源五兵衛から金を巻きあげ その人生をもズタズタに切り裂いた。 全ては、そこで得た金を源五兵衛に渡すために。 どんなひどい仕打ちも主 源五兵衛のためであった。
源五兵衛にとって その皆が都合してくれた金は、源五兵衛にとって仕える人である大石内蔵助に差し出すためであった。 必死になって得た金で 敵打ちに名を連ねたい一心であった。 そして大石内蔵助もまた、主のために 犠牲者を出してまで忠誠を尽くすのである。 物語の連鎖と共に、その先もまたその先も連鎖は続くのだ。
三五は親に勘当されている。父の主である源五兵衛の御役に立つことで、なんとか自分を認めてもらいたいと必死になる。顔も姿も知らぬ主のため、好きな女を苦界に沈めてでも金を工面しようとする。 顔も姿も知らぬ主のために、そんなにも忠誠を尽くせるものであろうか。
忠誠心が希薄になっている現代に住む私には、いつもこの一途な思いにまいってしまう。 この世界をみたくて歌舞伎をみるのかもしれない。
源五兵衛が、小万を手にかけ 三五との子供も嬲り殺す。静かな残虐さが恐しかった。 殺しの場の後、小万の首を懐に入れ 雨の中 歩く。怖いような途方にくれたような姿がが印象的であった。恨みだけで生きてきた男が、このことに関しては本懐をとげる。とげたあとの喪失感であろうか。説明のつかない姿であった。 その後 宅に戻る。生首を台に置き、差し向いになり、黙々とご飯を食べる。 そしてポツリと おまえとこういう暮らしがしたかったと言う。 運命を狂わされた男は 武士として最高の誉れである 討ち入りに加わることを望み、普通の暮らしを望む。 自分の気持ちが、もうよくわからない感じに胸がいっぱいになる。  盆が回った世界が表した 「あの時、刀に手をかけないでいれば」の世界をみて、源五兵衛の気持ちで後悔した。 また、三五になって悔みもした。 なんだかわからない涙がどんどん出てきて、自分でもめんくらった。 久しぶりの勘三郎の姿をみた 嬉しさなのか。 何がなんだかわからない。混沌とした世界が、しっかりできあがっていて、そこに溺れて涙が出た。  ぐったりしたが、いい気分であった。
勘三郎は、大石内蔵助の出で立ちで 立っていた。立っているだけで大石であった。 源五兵衛が 小万を残殺したあとに聞こえてきた大石の声に、真実を突きつけられたように感じた。そうか、これは忠臣蔵の一人の浪士なのかと思うと、この芝居のからくりが連鎖がすーっと理解できた。 こんなすごい芝居をみたら 勘三郎丈は、出たくてたまらなくなるだろうと思った。 おかえりなさい。待ってました。 元気になってよかった。
橋之助の源五兵衛は、翻弄されるも 芯はしっかりと不破数右衛門であった。 この人の存在は大きかった。狂気の沙汰は怖いだけでなく不気味であった。強烈な人間であった。 存在感というのはうまくてもあるものではない。これがなくっちゃ主役ははれない。  国生くん がんばれ。
三五の勘太郎は、驚くほど見事な三五であった。彼は芝居をしているのでなく三五そのものであった。気迫は怖いほどだった。 源五兵衛があと少しで落ちるときの息の詰め方とか、源五兵衛から小万を守ろうとぐっと抱き寄せる男気などに魅せられた。 小万には亭主がいるんだ、それは俺だと 言い放った時の気迫には 驚かされた。 うまい。
今回、菊之助の小万の力は 大きい。 コクーン歌舞伎という実験的な歌舞伎公演の中、毅然として彼は 歌舞伎役者であった。色気とか見つめ方とか、声を発すること以外で その場を作ることのうまいこと。 自分も、我が子も 殺されるという場で、源五兵衛に 女童を斬る気はないと言われたとき かすかにみせる女の顔にも、はっとさせられた。 一環して色気があり、源五兵衛が狂うことに納得がいったのは菊之助の小万であったからだ。 一番の効力は、物語の中で男達が常に主のためと 誤った一途さで進むなか、小万は大事な三五郎のためだけに生きているように感じさせたところだと思う。
歌舞伎には、滅びの美学がある。こういう表しかたもあるのかと思った。
ビバ・コクーン歌舞伎 。 初めて平場の一番前に座った。物語の中に入りこんだようであった。 濃厚な物語にどっぷり浸った。

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