7月大歌舞伎・ザ襲名劇場
わたくしにとっての演舞場襲名公演のみおさめ。夜の部を途中からみてきました。3F後ろの方の端っこから観賞。黒塚は、1階の前で観ればそりゃいいでしょうが、3階からというのもすごくいい。すすきでいっぱいの山の中で、ウキウキと踊る。その影が出るところ、影と踊るところは、1階の前の方からは見えまいとニンヤリ。芒一面の野に大きな月が出てきれいだった。
冒頭、夜 山の中の一軒のあばら家に阿闍梨一行が到着する。家というより小さな祠くらいの四角に建物。老婆一人が座るともういっぱいになる程。そこに、阿闍梨一行が一夜の宿を貸してくれと頼む。こんな小さなところに、更に4人も入れるのかと素朴な疑問がわく。おびただしい死体の山も、どこにそんなにはいるのであろうかと。デフォルメとはわかっているけれどもね。初日は、そんなことばかり考えてしまい、途中から会話をあまり聞いていなかった。今度はやりとりもちゃっと聞いてみた。(最初に岩手が登場したとき、家の中が見えたけど何もなかった。とまた思っちゃった。)
あと、團さま演ずる阿闍梨祐慶が、その機械はなんですかと問うのが、ちょっとおもしろかった。團さまは僧のおおらかさがあり、改心さえすれば それでも御仏は救ってくださるでしょうという言葉に大きさが出たようにも思う。
希望を失っている老婆 岩手は、まだ間に合うのかと、希望の火が胸にポッと灯る。その小さな変化がよかった。最初に観たときには気がつかなかった。
「黒塚」のというか、亀治郎さんのすさまじいほどの気迫にみせられた。もうどうみても完ぺきにおばあさんになっているのだけど(見た目も身体も動きも)、ついつい嬉しくなって踊りだすところにはじらいとか初々しさとかの娘が見えた。そこまでみせる執念のようなものを感じる舞台だった。 削って削って魅せる。ヤマトタケルとは逆の魅せ方。
若さがあるとキレのある動きができる。それをなくしてきつつある年代から、見た目でない若さとか 深い味わいがにじみでてくる風情や心をみせることができるようになる。この人にその年が加わったらどうなるのか。今は、うまいのだけど見事すぎて 感情の面でちょっとドライな感じもした。 年を重ねる変化を、私も長生きをしてずっとみたい。
鬼女の本性を顕した岩手に対し、阿闍梨らは数珠を擦って鬼女を調伏しようとする。それをみて、鬼女が哀れだ、可哀そうだと思った。 成仏したように思えなかった。あのすすきの野に消えたのか。あさましいという言葉が哀れだった。消えずに逃げていったなら、またあの空しい日々が戻ってくる。それよりはいいのかもしれない。鬼女に同情する気持ちを起こさせるところが亀治郎さん(猿之助さんだけど)のすごさだと思う。見応えがありました。
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