アーティスト
プチ夏休み 第一弾。演舞場の初日の夜の部を観にいくので、ついでに?!お休みしちゃいました。 気になっていた「アーティスト」を上演していたので、せっかくなので映画もみちゃいました。アカデミー賞とかオスカーとかをあれこれ受賞していました。ハリウッド黄金期のロマンティックストーリーって言われていたので、その気で見に行きました。
違いました。
流行りがくれば、必ず終わりもくる。これは、サイレント映画から、トーキー映画への移行期に ちょうど円熟していた俳優の話でした。サイレント映画といわれるのは、比較するトーキーというものができたからで、それまでは「映画」といえばこれだった。映画館にくる観客は、おでかけ用の服を着る。スクリーンの前にオーケストラが並び、生で演奏する。言葉がない分、動作はオーバーになる。華やかで、まさに「娯楽」という空間。これはこれで、素敵な世界だと思った。黄金期のスターは、スターにふさわしい生活をする。豪邸から、運転手付きのクラッシックカーにのり、スタジオへ向かう。その時はクラッシックじゃないけど。スターは、スターである。隣にいるような女の子の要素は求められない。特別な人。
そして、突然終わりがくる。トーキーなんで奇妙なもの人がみたがるはずがないと。でも、現実は違った。おちぶれていく。が、映画「ハリウッド大通り」で観たような残酷なだけの現実とは違う。うらぶれても様になっている。そして、愛し そっと見守る人がいる。彼は、人から注目されなくなってもみすぼらしくない。悪意のレベルが違う。絶頂期に人にえばりくさっていたわけではないからであろうか。粋な男が、さえなくなっただけ。彼が悪いのではなく、時代が変わっただけ。無声映画をなくし、スペクタクルなものが全盛になったけれど、やっぱりあのころのものっていいと思う心がどこかにある。全員そうおもっているわけではないけれど、便利さや目新しさに夢中になってなくしちゃったあれ、いいものだったのになと思う心に気付く。ノスタルジーってこういうことなのだろうか。何もかも昔どうりにもどせばいいってものではない。映画「ミッドナイト・イン・パリ」で、懐古に思いをはせるが ここで暮らすとなるとアスピリンがないところでは暮らすことができないと言う。 あこがれと現実の差があってこそいいのかもしれない。
言葉を極力少なくし、短い言葉(字幕)で表現する。言葉を選びぬいたすえにのこった言葉に威力がある。音楽がいい。トーキーの世になった瞬間の場面にだけ、言葉以外の音が入った。グラスを置く音、物と物があたっておこる音。音の使い方が絶妙にうまい。トーキー(talkie)って、talking picture からきたものなのか。なるほど。
主人公ジョージのジャン・デュジャルダンがこのみでした。レッドバトラーっぽい。かっこいい。ほろ苦くって、いい映画でした。好きです。
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