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2014年5月16日 (金)

七世竹本住太夫引退公演 国立文楽劇場開場三十周年記念

1405 国立文楽劇場開場三十周年記念。国立劇場で文楽をみてきました。七世竹本住太夫引退公演。第一部はとれなかったので、残念ながら住太夫さんの語りを聞くことは叶いませんでしたが、第2部をじっくりと鑑賞してきました。
女殺油地獄と鳴響安宅新関。どちらも大迫力。会場は満員御礼で大賑わい。熱気にあふれていました。1番前の席から負けずに熱く鑑賞。
女殺油地獄は、以前にも一度国立劇場で観ました。再び驚く。徳庵堤の段。8人の太夫がずらっと並び三味線は一棹。これがどういう塩梅を意味するのか。文楽はまだまだわからなく、とても面白い。河内屋与兵衛を遣うのは勘十郎さん。登場しただけで放蕩息子感が出る。お吉は和生さん。茶屋の店先で姉のように意見をしてたしなめる。うるさがりながらも、若い女に甲斐甲斐しくされる様を友達の手前 面倒がりながらも芯からはイヤがっていないように見える。贔屓の小菊が、自分を袖にして他の客と野崎参りをすることに腹を立て、友達をつれていちゃもんをつけに行きくだらに喧嘩をする。同情できる点がひとつもない、とにかく浅はかな青年である。それを、どこかカッコよくも見せてしまうところがすごい。河内屋内の段で、その浅はかさは迷惑という域を越えていく。気に入らなければ暴力をふるい、その場しのぎの嘘をつく。人を強く憎むあまりというわけでもなく、お吉を奪いたいほど愛するわけでもない。世間にいらだちを覚えているわけでもない。ただ放蕩息子なのである。こんなにいい両親や妹がいてもどうにもならない。この先の凄惨な場を知っていてもなお、そんな与兵衛を嫌いにならないのは、すごい組み立て方だと思った。最後に、豊島屋油店の段。この冒頭で、立ち酒を飲むことの縁起の悪さについて触れる。この場がとても印象に残っていて、立ったままとりあえず一口飲むことがイヤになる。人がしていても。立ち酒飲んで誰を見送りというお吉自身が見送られることになるとは。この伏線の引き方に、言葉の力を感じる。知ることってこういう楽しみを得ることです。女殺油地獄。まさにこの演目の世界が広がる。親に借金を背負わさないために殺らなくてはならない。無理やりなきっかけを作り狂喜のスイッチが入る。歌舞伎で生身の人間が油ですべりながら逃げ、刺すのもすごいが、人形もすごい。確か3人で一躰を遣っていたはずなのにどうなているのかと思う一体感で、逃げ追いつめる。とうとう手にかけてしまった後、戸口の柱に寄り掛かる姿は人形とは思えなかった。命を落としたお吉をおいて、そっと人形遣いが去る。そこにおかれた人形は急に生気を失う。文楽ってすごい。ちょうど、豊島屋油店の玄関の戸口の前の席だったので、なんともいえないやってしまった感を、与兵衛と共に味わった気になった。
休憩をはさみ鳴響安宅新関。先ほどの迫力に負けない大迫力。ずらっと並ぶ三味線。幕がひらくとずらっと義太夫も並んでいて、それだけでホゥと声が出る。歌舞伎の勧進帳をよくみているので、微妙な違いや、人間でないと思えない気迫になんどもなんども驚く。弁慶のなんと大きいこと。弁慶の左遣いと脚遣いは顔を出して遣っていました。どういう約束毎があるのでしょうか。主遣いが合図を出すとのことですが、その合図がまったくわからない。どうしてどうするべきなのかちゃんとわかるのであろうか。話にも引き込まれるし、その操作へいきつく技にも引き込まれる。語りも三味線も引きつける。とても重厚で、濃いのだけどあっという間のような、濃密な時間でした。とにかく驚いていました。飛び六法にも。感謝や、安心の思いがあふれた延年の舞にも驚いた。
まさに、鳴り響くでした。帰り道、ずーっと床本を読みながら頭の中で再現させ続けました。なんて面白いのでしょう。もうびっくりです。

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